<真剣にあそぶ>
この世は遊び場であり生きるとは真剣にあそぶことだと思っている。
ジム・キャリー主演の映画「イエスマン」でヒロイン的な女性が「この世は遊び場よ。」と言っていた。
ずっと心に残っていたこのセリフが最近、私の中でぐっと色濃く現れてきたのである。
平日に働き週末休むのが人生だと思っていた頃の自分は、もう過去の人。「人生=仕事+趣味」の方程式を自分の中から洗い流して久しい。福祉施設で利用者と接しているとき、経理事務をしているとき、文章書きに没頭しているとき、旅しているとき、全部「あそび」。たまには大はしゃぎもする。
仕事が与えてくれる心地良い緊張感は、真剣な興奮。ひと山越えると達成感というごほうびがついてくる。ぷらぷら歩いたり、うたったり、描いたり書いたり弾いたりしているときは、まさに生きているのを体感するとき。
自分の持っている、色の違うエネルギーを、どこでどう出すか。それを”仕事” ”趣味”と呼んでいるだけ。どこで何を、どう出すか、動かすかについて境目はないから、何もかも全部「真剣なあそび」。
・・・今日は何してあそぼうかな。
<好きなものには、近づいて>
20歳前後のころ、年末年始郵便局で短期バイトをした。そこで出会ったNさんという人が、何かの話の中で「好きなものには、近づいて。」と言っていた。
当時、自分が一体何をしているのか、したいのか、全くみえなくて混迷、混乱、正体不明の焦りで発狂寸前だった私。何をどうしてこれから生きていくのか?わからない。みえない。でも月日は、どんどん過ぎていく・・・・不安と焦りに押し潰されそうだった私の心に、「好きなものには、近づいて。」のことばは、深い鐘の音(ね)のように響いた。好きなことで稼いじゃえとか、苦しみや痛みを避けて好きなことだけすればいいよ、という安易さではないのは、Nさんの話し方、声の調子、まなざしのまっすぐさから伝わってきた。このことばが出てきた会話の詳細は覚えていないけれど、当時の私の混乱、焦りを感じ取ってくれたNさんのこのことばは、現在の私へとつながる道しるべになってきたように思う。
<ひとつひとつ重ねる>
「好きなものには、近づいて。」のNさんは、こうも言っていた。「大丈夫、怒濤人さんはちゃんとひとつひとつ年を重ねていける人です。」こちらも詳細がおぼろげだが、「好きな~」と同じ時の会話の中だったと思う。混迷してブワブワの私を見て、Nさんがそう言ってくれた。たしか、何年生きているかという文脈で「私、34ですよ。」と。当時20才前後の私より年長であるNさんが、私を「重ねていける人」と言ってくれた。時を自分の中でかみしめて、かさねて生きるんだよ、と伝えたかったのだと思う。まっすぐ目を見て「大丈夫。」このことばにどれだけ救われたかわからない。
今思えば、Nさんについて何も知らない。あのバイトをしていたこと以外、何も。
互いに気が合い、散歩したり、電車に乗ったりした。Nさんはパディントンのぬいぐるみを持ち歩いていて、電車の中で取り出してパペットのようにしていたな。
そしていつの間にか、交流は終わり、それ以来会っていない。・・・・生きていると、ふっと出会っただけの人に思いもかけず救われることがあるんだ。いまは、ひとつひとつ重ねている。
日々心から、そう思っている。
以上、3つの文章。
全部、2年半前に書いたやつなので、この2023年現在の怒濤人としてはちょっと違う表現にしたい部分あるけど、肝心な主張は何も変わってない。
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