一個前の記事の「外国人は~」の続きなんだけど、
作業終わって会計のとき、アイパッドでサインしたのね。私としてはそのあと、請求来ると思って待ってたの。支払いは現地現金っていうのを先に調べて知ってたからね。
でも、サイン終わってからも、作業員さんはのんびり、片付けの続きしてる。
あれ~?と思って「お金は~?」って私が言ったら、「ああ、ええっと、〇〇円くらいです~。だいたい」って。もうこののんびり感、最高~!!
ま、それはさておき。指摘して、支払った。
私言わなかったら、請求されなかったかもしれないんだもん。
これをさ、もったいない!とか、言わなきゃタダで済んだのに、なんて私は思わない。
別に私が聖人君子だからじゃなく、
一生懸命私のお風呂とかトイレを磨いて、きれいにしてくれて、すごく助かった、ありがとう!の気持ちを、伝えたかったんだもん。
お金ってつまりそういうことじゃん?
誰かが何かしてくれて、その労力に対して「ありがとう」っていう気持ち、その気持ちを、お金っていうモノによって表現してる。
ただの表現手段なんだよ、お金はさ。
だってすぐわかるじゃん、仲良しの友だちには、特別な時じゃなくても物を贈ったりあげたりするでしょ。それは気持ちを表したいからじゃん。あなたのことが好きだよっていうさ、その表れじゃん。
まだ友だちじゃない人、つまり今日来た作業員さん二人にも、なんかの形で「ありがとう」って表現したい、でもまだそんなに親しくない、だからお金っていう手段を使った、だけよ。
職人さんとか地元の店の人とも仲良くなるとさ、これはタダでいいよって、サービスしてくれたりするじゃん。
それはさ、親しみを感じるともうそれだけで充分!その他のもの(=お金)なんていらないよ!っていうことだよね。(もちろんいつもいつもタダじゃあないよ。それだと、労力へのありがとうっていう前提も崩れちゃう。)
いつもいつもタダなのは、無償の愛とか呼ばれてるもののことで、ちょっと話が逸れるからここでは脇に置いておく。
仕事だからお金払うの当たり前でしょ、って思ったらオワリだと思うね。
「お金がありがとうのアカシだ」っていうことを忘れさせちゃう。その感覚のマヒにつながるから。
交換条件的発想だから。
交換条件的発想がなんで危険かっていうと、労力を生み出してるのが人間なんだって思わなくなるからさ。
労力は、どんなジャンルでも人間が生み出してる、どんなに機械化が進んでもね。
それを忘れると、お金そのものにあたかも特別な価値があるかのような錯覚に陥っちゃう。
価値は、お金にじゃなくて、「労力に」宿ってるでしょ!!
労力を生み出してるその人、その人の懸命さ、真剣さ、大変だけどやり遂げようとしてるところ、、、
価値は、そこにある。
お金は、そういう、働いてくれた人の労力に「ありがとう!」って伝えるための、単なる道具、手段だよ。
そう考えれば、お金そのものを欲しがったり、貯め込んだりする愚かしさがよくわかる。
厄介なのは、お金そのものが力を握っている経済構造だね。
この構造のせいで、いかにもお金そのものがエライっていうことになっちゃってる。そんな場所では当然、お金をいっぱい持ってる方が自己実現できるっていう勘違いが広まるのも、無理はない。
でも、でも、でも!!!絶対、その発想は間違ってるね。
お金は「ありがとう」を伝える手段だよ。感謝の気持ちを表す、ただそういう手段でしかないよ。
今日、お風呂もトイレもきれいにしてくれた二人の東南アジア系作業員さん、ありがとう!
だから私は、お金払ったの。払いたかったから、ちゃんと。ありがとう!!
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