ことばが、記号みたいになっていくのがイヤなのかも。
なんでもかんでも言語化を強制されると、豊かなことばのやり取り、ことばの深み、っていうのが抜け落ちた「無機質な記号みたいなことば」ばっかになりそうだから。
デジタルくんは、デコボコを消してペッチャンコにするのが得意だから、深み・豊かさ、っていうのは苦手なの。
つまり、なんでもかんでもデジタル的になると、ことばもデジタルチックになって、伝達に必要なだけのただの記号になっちゃうんじゃないの?それがヤだ、ってことだ。
誰もがことばで発信できる気軽さのウラには、ことばの武器化、果ては暴走がある。もうだいぶ前から、暴走しまくってるし。
ことばが記号化しすぎてるってのが、その原因な気がするね。
人間が踏み込めない領域(俗に「神」)をまだ人間が本気で信じて、そういう存在を畏れるのが普通だったような時代にはさ、たった一言、声に出すのだって、今なんかよりもっと慎重だったんじゃないかね。
ことばの「力」を感覚的に知ってたんだろうな、昔の人は。
気軽に扱えるようになればなるほど、ことばの怖さを忘れる。
そして、ことばに「コロされる」。
ピクセルゾンビの正体はこれだ!そうだ!
自分のことばに殺された人間、それがピクセルゾンビだ。ノッペラボーよりヒドイ。
・・・ことばの豊かさって、語彙力だけじゃない。
ほんとに何かを「知る」ってのには必ずリアルな体験が必要だからさ、辞書を丸暗記したってそれは豊かさじゃあない。
何を話すにしても、リアルな実体験より強い「話」は無いよ。
だから、語彙力とかコジャレた表現なんかより、その人固有の歴史から出てくることばが何より、聞いてる人間には沁みると思うんだよなあ。
そういうのが本当の「ことば」だよな。
「記号」じゃなくてさ!
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